-
朝日新聞で『君は玉音放送を聞いたか』著者・秋山久のインタビューが掲載されました。
2019.08.20
-
2019.01.22
-
2018.11.07
-
2018.10.29
君は玉音放送を聞いたか
ラジオと戦争
ラジオは何を伝えたのか!?
満州事変、日中戦争、太平洋戦争と相次いで起こった戦争におけるラジオの果たした役割を検証するノンフィクション。ジャーナリズムが危機に直面する時代に考える。
「はじめに」より
この本は、日本でラジオ放送が始まった1925(大正14)年3月22日~1945(昭和20)年8月15日の敗戦までのおよそ20年間に、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と相次いで起こった戦争をラジオがどのように伝えたかを検証したものである。
日本でラジオ放送実施の機運が高まったのは1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災(死者・不明者10万5000人)が契機だった。欧米ではすでにラジオブームが高まっており、日本にもラジオがあれば、震災でこれほど多くの犠牲者を出さずにすんだのではないか、という声が上がっていた。
ラジオ放送開始の記念式典で、後藤新平東京放送局総裁は、①文化の機会均等、②家庭生活の革新、③教育の社会化、④経済活動の敏活化という高い理想を掲げた。しかし、それはまもなく厳しい検閲の下での国策放送の始まりだったことが明らかになる。最初に開局した東京、次いで開局した大阪、名古屋の三放送局による社団法人日本放送協会の設立総会(1926年8月)では、安達謙蔵逓信相が「放送事業は国家的事業と申してよく、その事業はほとんど国務に準ずる」と述べている。
この言葉のとおり、戦争が勃発すると、ラジオ放送は「国策放送」となった。太平洋戦争の場合、放送の番組指導に当たったのは情報局第二部第三課(放送課)で、検閲の基準は「大東亜戦争放送しるべ」(のちに「大東亜戦争放送指針彙報」)に例示されていた。それは次の4項目に照らして「依命中止」「極秘」「禁止」「不可」「差し止め」を行うという厳しいものだった。
1.現在国民に対し、放送適当なりや否や
2.日本的・枢軸的観点にありや否や
3.政府に協力的なりや否や
4.敵に逆用されるおそれなきや否や
こうした方針のもと、太平洋戦争中に行われた「戦時放送」は大本営発表846回を含め45ヶ月間続いた。検閲が厳しくなるとそれを避けるため先に自ら削除し、しだいに積極的に戦争協力への道を歩んでいった。
その実態は具体的にどうだったのか。
一 君は「終戦詔書」を読んだか
二 短波で和平交渉
三 ポツダム宣言受諾に軍部が反発
四 軍部批判はタブー
五 クーデター計画第一案、第二案
六 ニセ師団命令で動く
七 皇居占拠事件と茶釜
八 占拠された放送局
第2章 戦争の犠牲者三一〇万人
一 「九軍神」と「捕虜第一号」
二 皇居に一〇トン爆弾に耐える防空壕
三 空襲報道禁止の示達
四 広島原爆投下から二日間
五 “征きて敵米英を撃て”
第3章 政府の監視下で始まった放送
一 関東大震災後 放送局誕生
二 「挙って国防、揃ってラヂオ」
三 戦時体制下のラジオ放送
四 “放送報国”―太平洋戦争(大東亜戦争)勃発
五 変わる放送番組―太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦
第4章 国策放送からGHQラジオコードへ
一 ニュース原稿の素材
二 本土決戦前のラジオ
三 八・一五前後の混乱
四 降伏文書調印から占領下のラジオへ