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『ある愚直な人道主義者の生涯』が「部落解放10月号」書評欄にて紹介されました
2022.09.21
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森 正著『ある愚直な人道主義者の生涯』が「しんぶん赤旗」の書評欄で紹介されました
2022.08.30
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朝日新聞書評欄に森正著『ある愚直な人道主義者の生涯』が掲載されました
2022.07.19
ある愚直な人道主義者の生涯
弁護士布施辰治の闘い
“生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために”
民衆のために、そして民衆と共にあり続けた民衆の弁護士であり、戦闘的民主主義者であった布施辰治の生涯を描く!
二〇世紀日本に一人の傑物がいた。豪胆にして繊細、ヒューマンにして強烈な在野精神を宿した弁護士であり、社会運動家であった。その足跡は、国内は北海道から沖縄まで、国外は朝鮮半島、台湾にまで及んでいる。その眼差しは常に、刑事被告人(冤罪者を含む)、農民、労働者、借家人、被差別部落民、公娼、政治的少数者(無政府主義者・社会主義者・共産主義者ら)、異民族(朝鮮人や台湾人)などへと広角に向けられていた。桁外れにスケールの大きな人物であった。
【まえがきより】
二〇一一年三月一一日、東北地方で大地震・大津波が発生した。東日本大震災である。甚大な被害を刻一刻と伝えるテレビが、翌日、あろうことか福島第一原子力発電所の爆発まで映し出した。布施辰治(一八八〇〜一九五三年)のふる里である宮城県石巻市では、被災全自治体の中で最大の死者・行方不明者が出た。布施関係の膨大な資料を収蔵していた石巻文化センターも大きく損傷し、同資料も被災したが、市内に設置されていた布施辰治顕彰碑は幸いにも無事だった。
一九九〇年秋、私はNHKテレビ仙台支局の「週刊東北ゼミナール」の野外撮影で石巻市へ行った。同番組が布施辰治をとりあげ、私は小高い日和山公園に立って、「二〇世紀を目前にした布施辰治は救世の志を抱いて、ここ石巻から東京をめざしました」と語りかけた。眼下には、東北最大の河川・北上川が太い光の束となって悠然と流れ、古くからの文化交流の地である石巻の街並みが広がっていた。
戦後、占領軍の謀略の疑いの濃い松川事件などの裁判で布施と一緒だった大塚一男弁護士は、こう回想している。「ひとりの弁護士、社会運動家として明治、大正、昭和の長期にわたり、この人ほど積極果敢な行動をもって幅広い業績を残された例は他にないのではないか。その生涯は民衆のために、そして民衆と共にあり続けた民衆の弁護士であり、戦闘的民主主義者であった」(布施辰治顕彰会『追憶弁護士布施辰治』一九九三年)。
私が布施辰治に学問的な関心を抱いたのは、一九七〇年代半ばである。それ以来、布施資料の閲覧、同資料の解説作業(石巻文化センターの依頼)、布施の親族からの取材、講演、前掲NHKテレビ出演、石巻の庄司捷彦弁護士に同行しての前掲顕彰碑用の石選定……など、石巻市を中心に東北地方をしばしば訪れた。その間、九三年には顕彰碑に刻む「顕彰のことば」の起草を要請され、それに先立つ八五年一〇月には、「布施辰治先生顕彰講演会」(主催:布施辰治先生を顕彰する市民の会)に招かれ、「布施辰治の生涯」というテーマで一時間半ほど話した。
同講演会での思い出であるが、満員の会場は静粛そのものであり、私もそうとう緊張していたように思う。講演録で再現すると、「……十年ほど前、あることで布施辰治に強烈な印象を抱き、自らの浅学を顧みずに伝記を書き始めましたが、中途であえなくストップしております。……布施辰治という巨大な人間の前に立ちすくんでいる私の中には二つの感情があります。一つは、弁護士=社会運動家としての足跡の大きさです。あと一つは、とりわけ私に迫ってくるものですが、後世の人間の魂をも揺さぶる、生き方における真剣さです。社会的に有名・無名を問わず、その生き方に真剣さが溢れておれば、周りの人たちの魂を揺さぶるものです。……それが人間としての偉さにつながっているわけです。……比較的若い世代の立場から、人間・布施辰治のスケッチを試みることにします」と前置きして本論に入り、以下のように締めくくっている。
布施辰治の処世訓は、「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」であります。彼の凄さは、民衆と一体化して権力と闘い、生きぬいた点にあります。のめり込むほどに共に闘っています。布施とよく比較される山崎今朝弥弁護士にはない面です。
昔も今も、法律家や知識人といわれる人たちの多くが、どこか民衆を信じることができず、本気で共に闘おうとしないところがあります。布施辰治が生き方で現代の法律家・知識人に残したものは何かといえば、民衆と共に生きようとした点ではないでしょうか。布施は、「人間の尊厳性へのヒューマンな心」を大切にしていたのです。
「ヒューマンな心」は、「ヒューマンな寄り添い」という意味合いでもあった。布施と民衆の関係はいつも対等・平等だった。民衆は社会と国家を担い、動かしている主権者である――、これが布施の揺るぎない民衆認識だった。
講演で「比較的若い世代」と自称したときの私は満四二歳、歳月は流れて今や八十路を目前にしている。私の布施辰治研究はかなり進展し、布施の事績に関心を寄せる人たちは、韓国・台湾にまで広がっている。私を含めて、多くの人たちの関心は「布施人道主義」にあるように思う。
東日本大震災から三年八カ月経過した二〇一四年一一月、私はやっと『評伝 布施辰治』(日本評論社)を世に問うことができた。中日新聞社からの寄稿依頼、研究者・弁護士・新聞記者による丁寧な書評、布施辰治の母校である明治大学、私の元職場(名古屋市立大学)の市民学びの会、愛知県弁護士会、当地方の研究者による研究会などからの講演依頼……と、それなりの反響があった。その反面、拙著が大部(菊版、二段組みで本文一一一八頁)だったゆえの高価格と少ない発行部数によって、布施の諸事績を市民に広く伝えるという年来の課題は先延ばしになってしまった。本書はそのことを意識している。
本書の主テーマは、布施辰治の思想と行動の指針だった「人道主義」に注目し、それの成長の過程をたどり、時代の推移の中での特徴と意義などを探ることである。概要は、明治大学での講演(二〇一五年)で話した。「人道主義」=「ヒューマニズム」は、現代日本の災害救援ボランティア活動にみられるように、人間社会が存続する間は廃れないだろう。黒人差別に典型をみる人種差別、相変わらずの女性差別、コロナ禍の世界中で露呈しているさまざまな差別、政治と経済の貧困と混乱による世界的規模での難民問題などを直視するにつけ、人道主義は絶対に廃れてはいけないと思う。
とはいえ、人々が「人道主義」に込める意味は種々雑多であり、それゆえに一筋縄ではいかない概念である。この点を自覚しながら、「布施人道主義」の本質を明らかにできれば……と考えている。」
Ⅰ 日本近現代史を生きた布施辰治
一 布施辰治をめぐる近況
二 布施辰治とは
三 二つの憲法の時代を生きる
四 布施辰治をたどる視点
Ⅱ 断章「人道主義=ヒューマニズム」
一 一筋縄ではいかない「人道主義=ヒューマニズム」
二 人道主義とは
Ⅲ 「布施人道主義」の道程
一 序
二 「布施人道主義」の道程
第一期 揺藍の「布施人道主義」(一八八〇~一九〇二年)
第二期 純真なる人道主義者の登場(一九〇二~一二年)
第三期 民衆と紡いだ「布施人道主義」(一九一二~二三年)
第四期 東奔西走の「布施人道主義」(一九二三~三二年)
第五期 光と影の「布施人道主義」(一九三二~四五年)
第六期 終わりなき「布施人道主義」(一九四五~五三年)
Ⅳ 小括 :「人間の人間たる所以」のために